文章には感情を「さりげなく」込めたい

Writing

感情のこもっていないフラットな文章は退屈、かといって鼻息の荒い文章だと白けてしまう。相手に気持ちよく読んでもらうためには、「さりげない感情の込め方」が大切だと思うようになりました。では、そのためにどんな文章の書き方をすればいいのか…。僕が最近なんとなく気にしていることを書き留めておこうと思います。

さりげなく気持ちが乗せられる、ちょっとしたワード

「佐藤さんは、わずか3カ月で300ページの本を書き上げた」

例えば、僕がインタビュー記事の中にこんな文章を入れたとします。この文章には、(それってすごいですよね?)という感情がこもっています。客観的な事実だけを述べるなら、「佐藤さんが書いた本のページ数は300ページ。執筆期間は2カ月だった。」ということになるでしょうか。しかし、ここで「わずか」という表現を入れることで、それが「すごいこと」だと伝えようとしたのです。

「わずか」というのは、書き手の主観的な判断です。「3カ月で300ページを書いた」という記載だけだと、読んだ人はそれが短いのか長いのかピンとこないかもしれません。そもそも、300ページがすごいかどうかは、本の内容や体裁によっても変わってきます。
でも、こういう書き方をするときは、「こんなに短い時間で、これほどの量の本を書いたのはすごい」という気持ちを伝えたい。そこで「わずか」というワードを織り交ぜたわけです。

最近、僕はこうした主観的なワード選びをいかにさりげなくできるか、とか、ちょうどいいバランスで文章に感情を乗せるにはどうすればいいか、そんなことを考えながら文章を書いています。

数量に関する言葉は感情を乗せやすい

「わずか」の他にも、感情を乗せられるワードはいっぱいあると思います。特に、サイズの大小や分量の多い/少ないといった数量に関わる表現では、主観的な言い回しが多い気がします。思いつくままに、いくつか例を挙げてみましょう。

わずか/たった/ほんの/たかだか/せいぜい
たっぷり/ずっしり/実に/まさかの

「1kg」でも、「ほんの1kg」と書くか「まさかの1kg」と書くかで受け取り方は変わってきますよね?

さらに、言葉の後につけるワードでも、書き手の主観を載せることができると思います。

しか/だけ/のみ/ばかり/ぽっち
もの/も

「1kgだけ担いだ」と「1kgも担いだ」では、やっぱり感じ方は変わってきますよね?

「小さい」と「小さな」を使い分けてみる?

ちょっとした言葉の使い分けでも、感情のこもり方は変わってくると思います。例えば、「小さい」と「小さな」の使い分けです。

「小さい」も「小さな」も、基本的な意味は一緒です。ほとんどの場合、言葉を取り替えても意味が通じると思います。しかし、「大草原の小さな家」と「大草原の小さい家」では、受け取り方が少し変わってきませんか?

「小さい」という言葉は、書き手(話し手)の感情がないフラットな表現のように感じますが、一方の「小さな」には、書き手(話し手)の評価が含まれている感じがします。「ちっぽけな」とか「期待に満たない」みたいな評価です。

ここでは個別の引用をしませんが、インターネットで「小さい」と「小さな」の使い分けについて調べてみても、同じように「客観的な表現か主観的な表現か」で使い分けをするという記事がいくつか見つかりました。

こうした微妙な言葉の使い分けでも、さりげなく感情を乗せられるのではないかと思っています。

動詞に微妙なニュアンスを込められるようになりたい

同じように、動詞にも感情を込められます。例えば「書く」という動詞にも、いろいろなバリエーションがありますよね。

書き上げる/書き殴る/綴る/したためる/書き記す/書きとめる/筆を走らせる

それぞれ少しずつニュアンスが違います。「書く」という行為にどういうワードを選ぶのか、そこに書き手の考えが乗ってくると思います。

しっくりくる言葉が思いつかない時、僕は「Weblio 類語辞典」を頼ることも多いです。言い換えのバリエーションをたくさん見せてくれるので、愛用している人も多いのではないでしょうか。たくさんの本を読んで、自分の中にいろんな表現が蓄積していくといいのですけれど、そこはまだ精進の途中です。

感情を込めたほうがいい?込めないほうがいい?

とはいえ、こうやって文章に感情を込めることに、抵抗感を抱く人もいるのではないでしょうか。例えば新聞記事の場合、書き手の感情を込めずに事実関係を中立的に説明してほしいと思う人はいると思います。僕は雑誌などで新製品の紹介記事や技術解説記事を書くことが多いですが、そうした記事でもフラットに伝えてほしいと感じる人がいるかもしれません。

しかし、それでも僕は、ある程度は自分の気持ちを文章に乗せていこうと思うのです。それは、感情が見えてこない文章では、相手に伝わらないのではないかと考えているからです。

僕は、文章が伝わるためには「共感」が欠かせないと思っています。

「何を言うかより誰が言うか」という言葉がありますね。この言葉には、発言する人の権威や説得力が重要という意味もあると思いますが、それ以外にも「共感できない相手の言葉は心に入ってこない」という意味も含まれているのではないでしょうか。

感情がまったくこもっていないフラットな文章を読んでも、書き手への共感は生まれません。共感がない状態のまま文字を追いかけていっても、その文章は心に留まらずただ漏れていって、読んだ直後に忘れ去られてしまうと思います。

そもそも、客観的な事実だけを羅列した文章なんて、ちっとも面白くありません。僕が読み手だったら、きっと100文字くらいで飽きてしまいそうです。最後まで読んでもらうためにも、書き手の気持ちを込めることは不可欠ではないでしょうか。

山盛りだと白けてしまう

一方で、感情の込めすぎにも注意しています。演技でも歌声でも、感情がこもりすぎだと白けてしまったり、鬱陶しくなりますよね。文章も同じだと思います。

例えば冒頭の文章の場合、「佐藤さんの執筆期間はたったの3カ月。にもかかわらず、300ページにも渡る本を見事に書き上げた。」などと書いてしまうと、ちょっと感情を盛り込みすぎで鼻につきますよね。文字数が稼げてうれしい…というメリットはありますが(笑)。過剰な演出が功を奏するケースもあると思いますが、僕が読み手だったらこのテンションが続くのはしんどいです。

ちょうどいいバランスというのは難しいですね。僕もまだまだ模索中です。ダラダラと長くならずに、いかにさりげなく感情を乗せられるか。そのためにどんなワードを使えばいいか。そのワードの引き出しをどうやって増やしていったらいいのか…。最近は、そんなことを頭の片隅に置きながら文章を書いています。

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