才能がなくても編集者は続けられるのか?23年の答え

Essay

編集の仕事をしている人、これから編集者になりたい人、そして今まさに仕事を辞めようか迷っている人へ。少しだけ時間をいただけませんか? 特に役立つノウハウはありませんが、経験だけは長い一人の編集者の回顧録、少しは楽しめる部分があると思います。

みんな次々に辞めていった

 私が編集者になって、もう23年になります。辞めようと思ったことは何度もありましたが、気がつくと23年が過ぎていました。

 その間、たくさんの編集者に出会いましたが、その多くは1、2年で辞めていきました。中には数カ月で去ってしまう人もいました。すごくセンスのいい人も、頭のいい人もいたのに。

 もちろん、どの人生が正解かなんてわからないけれど、道の途中で諦めてしまうのは、なんだか惜しいような気がするし、見送る側としてはやっぱり寂しい。

 編集者をずっと続ける人と、早々に辞める人。その違いは人それぞれですが、あくまで私自身が続けられた理由に限って言えば、「図太かったから」に尽きるでしょう。

 これから話すことは、編集者としての普遍的なノウハウではありません。これから編集の道を目指す人や、今まさに奮闘している編集者にとって役立つとは限りませんが、23年間雑誌編集に関わってきた一人の昔話として楽しんでいただければ幸いです。

すぐに向いていないと気がついた

 編集者になる前は、印刷会社に勤めていました(その前は漫画家のアシスタントをしていたのですが、その話はまたどこかで)。ある日、高校時代の友人から「雑誌の編集をやらないか」と誘われ、わりと軽い気持ちで編集の世界に足を踏み入れました。

 当時の職場は、今では考えられないほど「ゆるい」環境でした。昼の12時に出社しても誰もおらず、3時ごろになってようやくポツポツと人が集まり始める…。訂正します。1人だけ、キャスター椅子を3つ並べて、その上で器用に寝ている人がいました。起きるのは、やっぱり3時過ぎだったけれど。

 みんな友達のように冗談を言い合い、夜が更けるほど元気になり、深夜の牛丼屋へ繰り出す。まるで学生サークルのようなノリでした。

 ところが、その編集部が突然休刊。入社してわずか3カ月のことでした。当時の私は「常勤スタッフ」という中途半端な雇用形態だったため、編集部がなくなれば仕事も消滅。保証もなく、次の職場を自力で探すことになりました。

「向いていないなら辞めればいい」の時代

 幸いにも、面接を受けた編集部ですぐに採用されました。しかし、そこは前の編集部とは180度違う、過酷な環境でした。

 フロアに響き渡るのは、キーボードを叩く音、仕事の電話、ときおり誰かが誰かを叱責する声。多くの人が、死んだ魚のようなどんよりとした目をしており、中には常に殺気立っている人もいました。和やかな雑談など、ほとんどありませんでした。

 さっそく雑誌の連載記事を任されましたが、渡されたのは簡単な引き継ぎ資料だけ。「あとはよろしく」という雰囲気です。わからないことは聞けばいいのでしょうが、当時の私は「何がわからないのかがわからない」状態でした。前の職場もたった3ヶ月で放流され、編集者としてのスキルはほぼゼロ。右も左もわからないまま、次々に仕事が降ってきました。

 今どきの企業なら、新人には手取り足取り教えるかもしれません。でも、この編集部にはそんな文化はなく、誰もが自分の仕事に必死。他人を気にかける余裕のある人はほとんどいませんでした。「向いていないなら辞めればいい」「ついてこられる者だけついてこい」、そんな空気が支配する職場でした。今の基準で考えれば完全にパワハラですが、当時はそれが当たり前の時代だったのです。

 そんな環境では、当然うまく仕事を進められるはずもなく、スケジュールはガタガタ。任される記事はどんどん増え、ストレスは限界に近づいていました。毎日不安で、焦るばかり。その頃の私は、きっとみんなと同じ、死んだ魚のような目をしていたと思います。

 編集者に求められる適性が、私には何一つありませんでした。進行管理は壊滅的に下手。編集会議で自分のアイデアは一切採用されず、話すのも苦手で意見をうまく伝えられない。「つくづく編集者に向いていないな…」。そう痛感して、惨めな日々を送っていました。

別媒体への異動が転機に

 そんな状況から抜け出せたのは、ある恩人のおかげでした。その人がある媒体の編集長に就任し、私を引き抜いてくれたのです。

 その編集部も忙しさは変わりませんでしたが、雰囲気はまったく違いました。みんなで一丸となって媒体を盛り上げていこうという結束力があり、頻繁に意見を交わす機会が設けられていました。たとえば、「この記事のここが良かった」など、発展的なフィードバックをし合ったり、「これからの雑誌はどうあるべきか」といった広い視野で議論したり…。編集長の人柄一つで、編集部の雰囲気は大きく変わるものなのだと実感しました。

 そんな雰囲気の中、私は次第に仕事の苦しみを楽しみに変えていけるようになりました。気持ちが前向きになると、成果も上がるものです。だんだんといいアイデアが湧いてくるようになるし、つくり上げた記事も満足度の高いものになります。記事の中にこんなビジュアルを入れたら面白いんじゃないかとか、こんなレイアウトにしたらウケるんじゃないかとか、そういう工夫ができるようになると、編集の仕事はどんどん楽しくなるものです。

 こうして、私は一番の窮地を乗り越えることができました。しかし、その後もずっと順風満帆だったわけではありません。人間関係に悩んだり、大きなミスをして周囲に迷惑をかけたり、自責の念に押しつぶされそうになったこともあります。転職に誘われ、「別の仕事に就けば少しは楽になるのでは」と迷ったこともありました。

図太さだって才能のうち

 それでも辞めなかったのは、冒頭で述べたように、圧倒的に図太かったからだと思います。どんなに苦しくても、心の根っこの部分に楽天的な気持ちがあって、「どうにかなる」と思っていたのではないでしょうか。

 たとえば、校了日(雑誌制作の締切)が迫っているのに、土日をダラダラと過ごしてしまうことがありました。本来なら返上して仕事をしなければならないのに。それでも翌日には「戦士には休息も必要だ」と自分を納得させていました。

 また、大きなミスをしたり、進行が大幅に遅れて叱責されたりしたとき。一時的には落ち込み、心から反省したつもりになりますが、一晩経てば「まあ、一生懸命やった結果だし、しょうがないか」と開き直っていました。

 この図太さは、意識的に鍛えたものではなく、性格的なものだったのだと思います。本を読んで意識改革をしたわけでも、トレーニングで身につけたわけでもありません。ただ、編集者としての適性が何一つないと思っていた私にも、「図太さ」という才能だけはあったのかもしれません。

きっと、まだ気づいていないだけ

 ここまで読んで、「なんだ、結局は自慢話か。少しは役に立つことがあるかと思ったのに……」と思った方がいたら、ごめんなさい。
でもね、私はこう思うのです。編集の才能が皆無だと思っていた私でさえ、「図太さ」という意外な強みを見つけることができました。だから、きっとあなたにも、まだ気づいていない才能があるはずです。

 だから、もし今、編集者としての適性に悩んでいて、「もう辞めようかな」と考えているなら、もう少しだけ手探りを続けてみてもいいんじゃないでしょうか。編集者の適性なんて、本当に人それぞれです。なにか一つでも眠っていたら、きっと切り抜けられます。大丈夫。

 それでも駄目だったら…。そのときはスッパリ諦めるのも一つの選択肢です。人生なんて、いつだってやり直せるんだし。そう考えられるくらいの図太さは、あってもいいと思いますよ。

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